第10章 古典の言葉と心の見方——ギーターの主題をそわかの言葉で

古代インドの対話の詩、バガヴァッド・ギーターの第 1〜7 章に出てくる主題のうち、行いと結果の分け方、心の揺れ方の眺め方、続け方、見守る位置の四つを、そわかの言葉でまとめます。見守る位置には、昔から使われてきたたとえも添えます。確かめられた事実ではなく、ひとつの見方です。古典に書かれているから正しい、という使い方はせず、自分の暮らしに照らして役に立つところだけを手に取ってください。

この章について

バガヴァッド・ギーターは、古代インドで語り継がれてきた、全十八章の対話の詩です。人が迷い、動けなくなったとき、どう立ち位置を見つけ直していくかが、一対一の対話の形で語られていきます。この章は、このうち第 1 章から第 7 章までに出てくる主題を、そわかの言葉でまとめたものです。

取り上げるのは、行いと結果を分けて眺めること、心の揺れ方を順にたどる地図として眺めること、一度で整えようとせず、くり返しの稽古で続けること、見守る位置から自分を眺めること、の四つです。どれも、確かめられた事実ではなく、ひとつの見方です。古典に書かれているから正しい、という使い方はしません。自分の暮らしに照らして、役に立つところだけを手に取ってください。

節を引くときは、そわかが原典から訳した文を、一字も変えずに載せています。節を引くのは、見方をひとつ差し出すためで、言い切りの根拠にするためではありません。

物語のはじまり——立ち止まる場面

古典は、ひとつの場面から始まります。一族が二つに分かれて向き合う場所に立った一人が、大切な人たちが両側にいることに気づいて、動けなくなります。その人が、導き手との対話を重ねながら、迷いの中から自分の立ち位置を見つけ直していきます。全体は、この形の対話です。

家族への恩義と、そこから生まれる執着、そして動けなくなるほどの迷い。物語は、それを外から眺める材料として置かれています。登場人物を、自分や家族に当てはめて読むためのものではありません。この章でも、場面の細かな描写は扱いません。

行いと結果を分けて眺める

結果が気になって手が止まる。うまくいかなかったらと思うと、始められない。そんなとき、行いと結果をいったん分けて眺めてみる、という手がかりを、古典は差し出しています。手の内にあるのは自分の行いで、結果は、自分の行い以外の多くの条件にも左右されます。動かないことを正当化する向きにも、動かない自分を責める向きにも、握りしめません。

じっとしているつもりでも、息や考えや気持ちは動き続けています。止めようとするより、どう動いているかに気づくほうへ目を向けることもできます。また、行いを手放すとは、何もしないことではなく、なすべきことは果たしながら、結果に寄りかからない向きのことです。

この見方は、結果が出なかったことを、行いの質の不足として読む話ではありません。「結果を握らない」を、動かない理由にも、無理を重ねる理由にもしません。

バガヴァッド・ギーター 第2章47節(そわか訳)「手の内にあるのは、行いそのものであり、その結果ではない。結果が行いの動機とならないように。行わないことにも執着が向かないように。」

バガヴァッド・ギーター 第3章5節(そわか訳)「ひとときでも、何も行わずにいられる人はいない。誰もが、自然に備わった性質によって、否応なく動かされている。」

バガヴァッド・ギーター 第6章1節(そわか訳)「行いの結果に寄りかからずに、なすべき行いを果たす人。その人が手放す人であり、結びの人である。祭りの火を灯さない人や、何もしない人がそれなのではない。」

心の揺れを、順にたどる地図として眺める

怒りや欲の勢いに、あとから気づくことがあります。心がどう動いたかを、順にたどって眺める地図が、古典にあります。この地図は、怒りや欲が起きたことを咎めるためのものではなく、いま心がどのあたりにいるかに気づくための目印です。

心が感覚について行ってしまうことを、風に運ばれる舟にたとえる言い方もあります。押さえつけて黙らせることと、気づいて落ち着きを取り戻すことは、別です。座ると考えが浮かぶのは誰にでもあることで、浮かんだら気づいて戻せば十分です。

静けさは、動きを止めることではなく、はたらきを保ったまま乱れずにいること、と眺めることもできます。風のない所の灯は、消えているのではなく、燃えたまま揺れません。

バガヴァッド・ギーター 第2章62節(そわか訳)「感覚の対象に思いをめぐらせていると、そこに執着が育つ。執着は欲を生み、欲は怒りを生む。」

バガヴァッド・ギーター 第2章67節(そわか訳)「さまよう感覚に心がついていくと、その心は、風が水面の舟を運んでいくように、理解を連れ去ってしまう。」

バガヴァッド・ギーター 第6章19節(そわか訳)「風の届かない所の灯火は、ちらりとも揺れない。心を制して自らの結びを修める人の心は、昔からそれにたとえられてきた。」

続け方——ゆっくり、くり返し

心を落ち着けたいと思って始めても、続かないことは珍しくありません。古典の中でも、同じ迷いが、対話の相手の口から語られています。心が移ろうのは、はじめから分かっていることとして置かれ、そのうえで、くり返しと、握りしめない向きが続け方として語られます。続かない日があることは、弱さの印ではなく、はじまりの前提です。

静けさを一度で手に入れようとせず、ゆっくり、ゆっくり、という歩幅で進めます。小さな量から、続けやすい形で試してみてください。

バガヴァッド・ギーター 第6章34節(そわか訳)「心は移ろいやすく、かき回し、力強く、かたくなだ。それを押さえとどめることは、吹く風をとどめるのに似て、ひどく骨が折れることに思える。」

バガヴァッド・ギーター 第6章35節(そわか訳)「心が抑えにくく移ろうものであることは、疑いようがない。けれども心は、くり返しの稽古と、執着から離れることで、とらえられる。」

バガヴァッド・ギーター 第6章25節(そわか訳)「ゆっくりと、ゆっくりと、根気に支えられた見きわめの力によって退き静まるとよい。心を自分のうちに据えたら、ほかには何一つ思いめぐらさないことだ。」

見守る位置と、つながりの中の自分

気持ちや反応に巻き込まれると、それが自分そのもののように感じられます。反応が起きていることと、それを見ている自分は、同じではありません。反応をなくすのではなく、巻き込まれすぎずに眺めるための位置が、古典では何度も思い出されます。

自分だけが切り離されているように感じるとき、古典は、すべての生きもののうちに自分を見る見方を差し出します。つながりの一面であることは、一人ひとりが背負う責任の範囲を広げるものではありません。

この章の節のほかに、ギーターの外で昔から使われてきたたとえも、見守る位置を思い出す手がかりとして、最後に添えます。

バガヴァッド・ギーター 第3章28節(そわか訳)「けれども、性質と行いの分かれ目を見きわめれば、性質が性質の中で動いているだけだと見えて、とらわれなくなる。」

バガヴァッド・ギーター 第6章29節(そわか訳)「結びに結ばれた人は、すべての生きもののうちに在る自分を見、すべての生きものを自分のうちに見る。あらゆる所で、同じものを同じに見るまなざしを持つ。」

二羽の鳥
同じ木に二羽の鳥がとまり、一羽は実を食べ、もう一羽は食べずに見守っている、というたとえです。実を食べる自分と、見守る自分の両方がいる、という言い表し方です。
一水四見
同じ水でも、見る側によって、ちがうものに見える、という言い回しです。見え方はひとつではない、ということを思い出す手がかりです。
映画と観客
自分の人生を、映画を観るように、少し離れた所から眺めてみる見方です。出来事そのものが変わるわけではありません。眺める位置が変わります。喪失や病の直後、強いつらさの中にいるときには当てはめません。
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